いわき民報「いわき地域紀行」
5月18日夕刊紙いわき民報の『いわき地域紀行』に福炭(福島炭磺株式会社)について次の様に書かれていました。
清き流れの夏井川と景勝地として知られる二ツ箭山に育まれる小川町。かつて「福炭」と呼ばれた炭鉱があり、炭鉱の町として繁栄した時期があったことは、知られていない。炭鉱があったのは、現在の小川町西小川字淵沢、および高萩字山ノ入の付近。両地区の住民には、現在でもその名が通じる福炭は、汽船会社を経営する山下亀三郎が蒸気機関船の動力として小川町の石炭に注目し大正5年(1916)に設立。第一次世界大戦時には、好景気に支えられ、国内屈指の産出量を誇ったこともある。山ノ入地区最高齢者の鈴木文四郎さん(90歳)は同炭鉱で仕事をしていた一人。「福炭があったころは、もうそれはそれはにぎわっていた」と懐かしむ。 仕事の場である山を守護する山神様の祭りは、毎年春、二日間盛大に行われ、神輿が登場したほか、相撲、弓道などを大勢の人が楽しんだ。また、「福島座」と呼ばれる芝居小屋もあった。多いときで1000人余りの従業員が在籍していた同炭鉱は、昭和24年4月に幕を下ろした。その後、多くの人が四国や九州地方へ出稼ぎに行き、住まいを移す人も次第に増え、山神様の祭典もなくなり、静かな地区となった。炭鉱で栄えた面影は、何軒か残る炭鉱長屋にしか見ることができない。今は、山神様も草木が生い茂り、誰も近づくことが出来ない。鈴木さんは時折、近所の人たちと炭鉱の昔話をすることがある。しかし、話がはずむ年齢層は確実に高くなっている。「まちがにぎわっていたことを若い人たちは知らない。淋しいことだね。それに、伝えていくのも難しい。」かつての炭鉱労働者は小川町が立派な炭鉱のまちだった、そんな歴史が人々の記憶から失われつつあることに複雑なおもいを抱いている。