「いわき市史・別巻 常磐炭田史」より

明治元年 1868 9・17 松岡藩、戊辰戦争出兵にかかわる石炭三万俵の五ヵ年賦献納願を政府へ提出
    9・19 総督府石炭取締方、小名浜などの港から東京への石炭運送差留を解除
    10・18 松岡藩中山信徴、政府に管内石炭採掘および販売の事を申請。許可される
    12・15  鉱山局、鉱山司と再称
    この年 神永喜八、平潟港で政府軍艦に石炭を納入
    この年 松岡藩、水戸藩から独立
    この年  佐賀藩・グラバー商会共同経営の高島炭砿で、五〇メートルの洋式竪坑を掘削(坑内に軌条を設置、炭車を使用)
明治2年 1869 2・20  政府、鉱山解放を布告(行政布告177号)
    4・2  鉱山司、鉱山司大意書・鉱山司規則書を草案
    8・11  官制改革により、大蔵省と民部省が合併。鉱山司を所轄
    8・  開拓使、北海道茅沼炭鉱で坑口から海岸まで鉄製軌条を敷設し、石炭を輸送
    9・ 加納作平、兵部省より石炭方御用達を命ぜられ黒星炭の商標で小名浜から積出し
    10・ 若森県、救荒を目的に小豆畑村字ヲボコ沢の石炭山を、十一月に小豆畑村車置山字ト-ノスの石炭山を稼行
    12・ 神永喜八、若森県の窮民救助のため再び炭坑を始め、常総各郡から窮民三百余名集まる
    この年  長崎高島炭砿で、はじめて蒸気巻上げ機・蒸気ポンプを採用
明治3年 1870 3・  長崎高島炭砿白磨崎坑の日雇坑夫数百名、賃下げに激昂して人夫頭を襲う
    7・10  民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
    ⑩・16  高島嘉右衛門ら、横浜に瓦斯社中結成。日本最初のガス事業 
    ⑩・20  工部省開設。民部省から鉱山・鉄道・製鉄・燈台・伝信の五掛を移管
    ⑩・22  民部省、各府・藩・県に対し、管轄下の石炭産地名・一ヵ年の出炭高・見本品の提出を命じる
    ⑩・ 加納作平、高島嘉右衛門と石炭売買の特約を結び、磐城剣浜から積出し
    12・19  工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
    この年  後藤象二郎、蓬莱社(資本金五〇〇万円)を経営
明治4年   2・ 加納作平、ロシア船が石炭積込みのため小名浜港に来航の際、平藩知事の許可を得て一、五〇〇俵を売渡す
    4・5  政府、鉱山採掘出願人の身元を調べ、採炭は政府からの請負い形式とすると布告(太政官布告173号)
    4・17 川越藩、民部省に小豆畑村の石炭産出状況を報告
    4・ 加納作平、横浜商人橋本弁蔵との間に、六月から一〇年間の石炭販売を契約
    6・ 川越藩小谷徳右衛門と東京伊庭正太郎、上小津田村字唐虫久保石炭山を開山。5年2月川越県から茨城県へ引渡される
    7・14  廃藩置県の詔書が出される
    7・18  政府、府県藩鉱山の採掘願届書式を定める(太政官布告360号)
    7・ 太田次郎兵衛、宮村鬼ケ沢の石炭坑を取得し、採炭に着手
    10・ 神永喜八・神永喜平次・酒井喜蔵・井坂伝弥・東ケ崎兵五郎、若森県廃県により小豆畑村の石炭坑を引受ける
    12・ 神永喜八ら、石炭販売拡張のため東京深川安宅町に支店を設立
明治5年 1827 2・23  政府、鉱山司規則書を改正
    3・27  政府、鉱山心得書を定める(太政官布告100号)
    3・ 後藤猛太郎、加納作平ら山元3名の坑区を譲り受け炭坑経営に着手
    3・ 加納作平、石巻から東京に航海の万里丸に小名浜で石炭を販売
    6・24 磐前県、ウイーン万博のため石炭他の県下産物を博覧会事務局に提出
    7・15 鉱山寮七等出仕津田弘道、鉱山師長ゴッドフレーらと那珂郡長倉石炭岡を調査
    7・18 津田・ゴッドフレーら、20日まで小豆畑村・小津田村を調査
    7・22 津田・ゴッドフレーら、23日まで、白水村・小野田村・宮村・藤原村の石炭坑を調査
    7・26 津田・ゴッドフレーら、下手岡村字赤木沢・字後口の石炭坑を調査
    7・29  高島嘉右衛門のガス製造工場が落成
    7・ 加納作平、ジャーディン・マセソン商会へ毎月七、〇〇〇俵、郵便蒸気船会社へ毎月五、〇〇〇俵の納入を契約
    10・ 横浜の田辺源蔵と神永喜八、横浜本町に小売店を開業
    11・16  高島炭砿で坑夫200名が暴動
    この年  北海道開拓使、アメリカ人ライマンとフランス人モンローを招き8年まで炭田・油田の調査を依頼
明治6年 1873 3・ 太田次郎兵衛、外国人技師の雇入れについて、磐前県を経て工部省へ願書を提出
    4・16 野木善吉、磐前県に白水山を始めとする四、五ヶ所に徒罪人を使っての石炭開発を献言
    5・31 磐前県官員長保寿、好間村・大利村石炭山の見分出張届を提出。以後県官員の鉱山見分が続く
    5・ 磐前県、坑山開採者が村方へ支払う補償金を禁ずる
    6・ 後藤猛太郎、ポルトガル人ジェーダローザと白水村石炭山試験の契約を結ぶ
    6・ 北村権右衛門、磐城産の鉄と石炭で製鉄を試みようとイギリス人スチュベルスと雇用契約を結ぶ
    7・20  日本坑法発布。施行9月1日
    8・2  工部省、鉱業のため外国人技術者を雇入れる時は鉱山寮へ協議することを通達
    9・5  三池炭山を官営とし、鉱山寮三池支庁(工部省所管)を設置
    10上旬 太田次郎兵衛、イギリス人ジョージ・マンスフィールドを雇い、鬼ケ沢で火薬を使い掘削。約20日間採炭
    10・  浅野総一郎、横浜において薪炭商(石炭販売)を営業
    11・ 大田次郎兵衛、宮村鬼ケ沢の借区開坑願を提出。7年1月27日に許可される
    この年 日本坑法の施行を受けて、磐城では借区申請が相つぐ
明治7年 1874 1.16  政府、高島炭砿を官営とし、工部省に高島鉱山支庁を設置
    1・ 後藤猛太郎雇入れのイギリス人イーエッチェムカーバ(ガワー)、後藤の石炭山測量を終え帰京
    1・ 渡辺治右衛門(明石屋九代)と片寄唯吉、白水村字弥勒沢の借区開坑願を提出
    11・ 後藤猛太郎代理の水上清美が帰京し、小野惣平が山元差配となる
    12・  後藤象二郎、50万円にて高島炭砿の払下げを受ける
    この年  竹内綱、大蔵省六等出仕を辞して蓬莱社に参加
明治8年 1875 7・ 後藤猛太郎、文部省博物館へ白水産・宮産・小野田産の石炭を寄贈
    12・4 高島炭砿第二坑内のガス爆発で坑夫4〇名死亡、31名負傷
    この年 工部省長谷川光忠、神永喜八から石炭を見本として買上げ、釜石へ運送
明治9年 1876 2・  浅野総一郎、横浜ガス局のコークスを大量買取り、深川製作寮出張所(セメント工場)へ納入し巨利を得る
    4・ 工部大輔山尾庸三、師長ゴッドフレー・製砿師ビヤンジーを携行して上小津田石炭坑・白水石炭坑などを視察
    5・ 後藤猛太郎、工部省へ見本炭150トンを小名浜から積出す
    この年  高島炭砿(後藤象二郎経営)、ダイヤモンド試錐を実施するが故障のため中止
明治10年 1877 1・11  工部省に鉄道・鉱山・通信ほか10局が設置される
    1・30  西南戦争起こる
    1・ 後藤猛太郎代理の小野惣平、山元差配の辞職願い出る。以後後藤の坑区は休山状態
    7・26 工部省御用掛准奏任戸田氏、阿仁・院内・釜石の各鉱山、尾去沢銅山、白水炭山などの巡検に出発。9月15日に帰京
    12・  三池炭砿(工部省所管)三ケ山竪坑で164尺の通気竪坑が完成
    この年  浅野総一郎、西南戦争で輸送杜絶のため、石炭の価格暴騰を機に巨利を得る
    この年  高島炭砿で十数頭の馬を坑内に入れ炭車を引かせる
明治11年 1878 6・ 工部省御雇のアメリカ人ライマン、磐城の石炭山を調査
    11・ 古河市兵衛、福島県軽井沢銀山の経営に着手。大島高任と共同経営
明治12年 1879 2・19 後藤猛太郎所有の宮村字平太郎に積置いた明治10年以来の貯炭が焼失
    12・  官営幌内炭鉱、煤田開採事務掛のもとでアメリカ人技師ゴウジョウが立案した大坑道の開削に着手
    この年 磐城の石炭坑で稼業忠のものは白水村の3坑のみ
    この年 磐城丸回漕会社、東京・磐城間の海運を目的に設立される
明治13年 1880 11・4  高島炭砿坑夫数百名、賃上げ要求拒絶を不満とし暴動 
    この年 滑川敬三が磯原村で石炭を製塩試験に用いたことにより、民家のかまど用に石炭が普及
明治14年 1881 1・11 浅野総一郎代理の山崎藤太郎、小野田の炭坑8ヶ所の坑区借上げなどを大平左司馬らと仮契約
    4・7  農商務省開庁
    4・25  岩崎弥太郎、後藤象二郎所有の高島炭砿を譲り受ける
    5・ 炭砿組(石炭会社)設立、白水・好間・小野田の3炭坑引受け、採炭に従事
    9・22  日本坑法第8章中に借区税納入の強制などを改正追加(太政官布告49号)
    12・ 大津村鈴木平四郎らの酒造家、薪のかわりに石炭を使用
    この年 好間の石炭坑でコークスが製造される
    この年  佐渡金山で赤羽工作局試作のイギリス式削岩機がわが国ではじめて使用される

 

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