元常磐炭砿社長
     「大越新氏」を偲ぶ
                                                                                                           中田信夫
一、 出逢い
  私と大越社長との出逢いは入社の口頭試問の席であった。あんまり頑丈の様ではないが坑内が勤まるのかなと一言丈聞かれたのを憶えている。入社後、新入社員激励の夕食会をお宅で開いて下さったが炭鉱にはこんな酒豪がいるのかと驚く程で、私達が束になってもかなわなかった。それから十年程が経って内郷砿勤務となっていた時、坑内視察に来られて御一緒し初めて言葉を交わした。排水の問題で苦労していたので御教示を仰いだところ夜遅くまで坑事務所に残って相談に乗って下さった。その時の社長は優しい先輩だった。
 現場から砿業所に移って企画開発を担当してから山元と東京本社の間を往復するようになったが、それは現場の案に対しての本社の意向を聞くための根回し役の様なものだった。技術面では度々大越社長にお逢いして御意見を戴いたが時には社長室に午食を運ばせて終日デスカッションする日もあった。

二、 採炭技術の基本を教はる
 常々「声なき自然の声を聞け」と喩された。自然は必ず我々にシグナルを送ってくれる。耳を澄まして謙虚に自然の声を聞けと云う。その声は神の声だとも云はれた。自然発火が起きる前には炭壁が汗をかく。舐めてみれば出水の危険がある温泉かどうかが分る。天井
を叩いた音で落盤の有無が知らされる。こう云う現象を皆自然の声だと云う。叉自然に逆らうなとも云はれた。
 そして温泉対策を抜きにして採炭はないと云うスタンスに立って排水の強化を基本とされた。昔はダムを築いて温泉を封じこむ方法を取っていたがこれは自然に逆うことで、出た温泉を極力排水することで温泉の圧力を減らす方法を説いた。これを次の様に説明してくれた。
「人間の子供は二八〇日で母胎から生まれ出て来るのと同様に、温泉の圧力が二八〇ポンドになると堅い岩石を打ち破って坑内に噴出する」と。
 更に地熱による高温対策と地圧制御には採掘跡を充填するのが有効な事を知って戦前の入山採炭時代に湯本砿五砿で炭車を横明けする手作業で土砂充填を試みている。非能率で実験に止まったが昭和三十五年から始まった常磐炭砿の集約合理化計画は大越社長の云う出水防止対策と採掘跡全充填が骨格となって完成を見たものである。

三、 お人柄に触れる
 以下は大越社長が亡くなられた後、乞はれるままに私が書いた追憶の拙文である。当時の社会情勢を知るために注釈を加えた上でその侭を記載する。
 排水計画を検討中の時に、突然(Q×H)をどう思うかと質問された。これは排水の際の馬力を求める計算式でQは排水量を、Hは揚程を表はすのだが突飛な質問で答えに窮していると、QはQuality(技術)を、HはHumanity(人間性)を表すものと思え。技術屋と雖もHが欠けていれば一人前とは云えないと数式を借りて若者に人間教育をなさった。
 叉、ある、ニュートンの万有引力の法則 H=(m1×m2)/r・r を示してこれは「去る者、日々に疎し」を云っているとのこと、つまりm1さんとm2さんが引き合う力は距離(r)の二乗に反比例するのさ と笑っておられた。普通の技術屋とは違った一面が窺はれた。
 一緒に仕事をした後には時間を割いて夕食を御馳走して下さったが「無理して飲むなよ」と気遣ってくれた。そして昭和初期の磐炭争議(註一)で入山採炭を代表して単身乗りこんだ話、戦後の分離問題(註二)で「話は判った」とGHQの要人が握手してくれたその手がグローブの様に大きく感じた話など思い出話を聞かせて下さった。酔う程に必ず唱はれたチャンチキおけさの渋い声が今も耳に残っている。
 叉東京に社長として常駐した最初の頃 交番のお巡りさんに飲屋を案内させた話、飲屋の婆さんが勘定取りに来て、腰に手拭をぶらさげた爺さんがこんな立派な会社の社長さんだったのかとびっくりした話を楽しそうに語ってくれた。
 西部砿泉田立坑の坑口の位置を決めるのに先頭に立って峰から沢へと歩き廻り、後に続く私達はその健脚ぶりに驚かされたが、こういう時のために、東京に居ても努めて車に乗らず歩いているとのことだった。
 炭鉱調査団の来山に当っては数日前から湯本に泊られて社長としての陳述書を作られたがその時初めて「ニワトリ経営」という新造語を聞かされた。(註三)それを数式で表はせばどうなるのか、今となっては聞く術もない。その後ビルト炭鉱として通産省のヒヤリングを受けることとなり、加納邦武氏(経理出身、後の常磐興産取締役・故人)と私が参画したが社長より「常磐のヒアリングは評判が良い様だな」と褒められた時の感激は昨日の様に思い出される。
(註一)磐炭争議
 大正九年から昭和に至る迄、年々景気は悪化し石炭の価格は屯三〇円が大正十五年には十六円、昭和二年になると五円で投売りする炭鉱まで現はれた。磐城炭鉱は大正十五年に三百名の人員整理を発表したがこれを契機に磐城・入山・古河好間の各炭鉱に鉱夫組合が生まれて日本労働総同盟鉱夫組合常磐地方連合会が発足した。昭和二年に磐城炭鉱で鉱夫組合と会社側の磐炭会との間で小競合いが起り、これに東京から加藤勘十等の大物が駆付けて百名近い負傷者を出す大事件にまでなった。この争議に同調した入山支部の鉱夫四十三名を会社が解雇したことから入山採炭でもストに突入した。当時は労使が対等に話し合う慣行・ルールもなく激突を繰返す丈であった。こんな中で大越氏は単身組合事務所に赴き説得交渉に当ったという。ストの最中に湯本坑五坑でガス爆発が起り脱落者が続出、争議も自然消滅して入山支部も解散し組合側の完敗に終った。
 大きな痛手を受けた入山採炭は従業員の協力の必要性を痛感し、社是として一山一家を打ち出した。(後の常磐炭砿の一山一家主義に引継がれた)
 そして従来は坑外夫のみを会社が直接採用し坑内夫は飯場を介する間接採用としていたものを全員直接採用に切替えた。更にハモニカ長屋を二室を備えた坑夫長屋に造改築して渡り坑夫が大半であった採炭夫の定着化と同時に愛社心・連帯感の醸成を図った。そしてこれを機会に労務係による近代的管理体制に入って行くが、これ等の諸施策には大越氏の強い主張が反映されていた。
(註二)分離問題
 常磐炭砿は昭和十九年に磐城炭鉱(浅野財閥系)と入山採炭(大倉財閥系)とが戦時下増産の国の要請により合併したものである。ところが昭和二十二年に財閥解体と日本の工業力弱体化を目論むGHQにより集中排除法案が公布され、磐城・入山の分離が俎上に上り、俄然旧磐城炭鉱系の職員が分離促進運動を始めた。遂には磐城炭鉱の本拠地であった内郷町の町議会が分離支持に、対して湯本町議会は分離反対を支持、更に労・職組までが二派に分れるに至った。
 分離派の言い分にも一理あって、入山採炭の鉱区は湯本方部丈であるのに対して磐城炭砿は内郷・磐崎・鹿島と数倍の鉱区があり国の要請で合併したに過ぎないこと。対等合併とは云え新会社との株式交換比率は磐城2に入山1で実質的には吸収合併であること、叉合併後の人事は入山系が重用され磐城系は従属の形にあること等が彼等の云い分だった。
然し合併当時の両社の実状は、磐城炭鉱は年々経営が悪化し株価も五円であったが入山採炭は多くの人材を抱え技術も上で順調に増産を続けて株価は十三円を示していて、入山の人達の鼻息は荒かった。
 そして時の大越砿業所長は磐城・入山の確執に囚われず、飽迄技術者の見地から分離反対の陣頭に立った。将来の深部採炭は総合的な排水計画によってのみ可能であり、運搬・通気の一元化も図られる。分離は共倒れを招く。そして積極的に福島軍政局に通ってGHQに働きかけ、その熱意と人柄に軍政部のキング少佐も動いた。集排法適用解除が決まった時キング少佐と 
More coal,More alcoal
と云って盃を上げたと云う。如何にも大越さんらしい。若しこの時分離されていたなら全国五指に入った常磐炭砿は生まれなかったであろう。
(註三)ニワトリ経営
 合理化と同時に炭鉱の将来を見据えて多角経営を図るに当って、炭鉱の持つ人的・物質資源をフルに活用することを前提とした。鶏は捨てるものが無いところから多角経営への途をニワトリ経営と呼んだ。
 但しその中で温泉を利用した事業は決して興してはならないと断言されていた。温泉の揚湯口が採掘場の移動に伴って変るからで、その都度地元の人達に迷惑をかけると云う理由からであった。然しその後白鳥に揚湯する頃になると保温技術も進歩して長距離のパイプ輸送でも温度が下らず良質の温泉が得られる様になり此処からパイプ輸送することでハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を創立した。

四、 別れ
昭和四十五年、この時は相談役になられて湯本の松柏館裏手にお住まいであったが、スペイン、マドリッドでの世界採鉱会議で常磐炭砿の合理化の成果を発表したので報告に参上した。かねがねの主張が生かされた結果と大変喜んで下さった。
五十年三月、知らせを受けた時には既に昏睡状態でその日の夕方亡くなられた。(享年七十七才)私が最も尊敬し、最も多くの教えを受けた大先輩との別れだった。
ただ残念であり申訳なく思うのは、三十五年に奥様を亡くされながら私共若い者を相手にされていたお気持を、今でこそお察し出来るもののあの頃は全く気付かなかったことである。                             平成十六年二月
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