常磐炭砿の学卒者達

                      中田 信夫

 

一、   戦前の炭鉱

 戦前からの古参教授が卒業生に贈る言葉が、知らないことは答えるな、三マイルシステムを厳守せよ、と言うことだった。お前達が現場に行くといろいろなことを聞かれるだろう、中には意地悪な質問があるかも知れないが判らない時には答えるな。そうすればこの学士様は知っていても教えてくれないのだと思うだろうからと、岩石鑑定を例にして語ってくれた。若し意地悪い連中がコンクリートの破片を出してこれは何と言う岩石かと聞かれた時に、判らないのに変な名前を持ち出したらそれで終わりだ。その時はポイと投げ捨てて立ち去ればよいと。

 又現場に在っては三マイル以内では常に聖人君子であれ。遊びたい時は三マイルの外に出て遊べ。スキャンダルは炭鉱では命取りになり一生を棒に振るぞと言うことだった。車社会の今なら水戸か仙台に行け、いわき界隈では遊ぶなということになる。

 幸いに前者の質問は受けずに済んだが三マイルは守り通したつもりでいる。この事は戦前の炭鉱では如何に学卒が珍しく注目され、特別扱いされていたかを語っていると思う。

 炭鉱と言うと「タコ部屋」を連想して、そこは並みの人間の行く処ではないと言うのが世間一般の眼であり、現に明治生まれの父は私が炭鉱に入社すると知って顔色を変えた。

 合併前の磐城・入山炭砿でも学卒はほんの一握りに過ぎなかった様だ。

二、   戦後の炭鉱

 戦後は国の傾斜生産方式により復興のチャンピオンとして一躍クローズアップされ、加配米や酒・煙草に作業服(進駐軍のお古もあった)地下足袋等が特配され、次々に炭住が建っていろいろな職業や学歴を持った人々が集って来た。中でも学卒の就職希望会社ランキングに仲間入りして人気を集めた。閉山後に興産が御世話になったコンサルタントの一人、早大の教授によれば、当時は容易には炭鉱に就職出来ず難関中の難関だったと言う。

 常磐炭砿で正式に入社試験の形を取ったのは昭和二十二年からで以後年を追って採用者を増していった。

 

(余談)

 私の場合は卒業論文を書く為に常磐炭砿に一ヶ月程実習に来ていて、会社上層部の方々と顔見知りになり、試験の折「オ〃お前か」となって簡単な口頭試問で決まってしまった。実習では専属の先山を一人付けてくれ、寮の一室が与えられ、帰りには入坑手当まで頂戴した。良き時代の名残りと言うか。そして何よりの思い出は坑内禁煙が喧しく言われ始めた頃だったが脚絆の中にキセルを忍ばせて昼食に一服した事だった。発破の導火線に蚊取線香で点火している一方で煙草は駄目と言う矛盾を学生ながら笑って居たものだ。

 

(三十年までは混沌の時代だった)

会社は遮二無二石炭を掘り、従業員は仕事にかぶりつき、生きるためのガムシャラなエネルギーはヤミ市の延長のようにさえ思えた。第一線の現場に居た私は公休出勤や残業を奪い合う人達に、如何にして公平に割り当てるかに頭を痛めたものだ。国家管理から、窓を明ければ三百万円儲かったという朝鮮動乱特需へ、更に炭労のゼネストと三十年までは混沌の時代だった。毎年入社して来る学卒者も混沌とした流れの中で無我夢中で走り回り自らを顧る余裕も無かったと思う。

差額・差額が給料に上積みされ、当時平石炭支局に役人となって在職していた大学同期の友人の給料の倍にもなっていて彼を嘆かせたこともあり(やがて逆転したが)本社に出張すれば慰労の接待を受けて銀座のキャバレーに連れて行かれ途端にバンドが炭坑節を流す等、若い者を有頂天にさせる様な時期でもあった。

 

この混沌の時代を次表で振り返ると

年度   年間出炭
(千屯)
  在籍者数       摘要  
S19   842     磐城・入山炭砿合併常磐炭砿に  
20 100% 745 100% 9585   終戦
21 91% 677 124% 11853   傾斜生産方式発表
22 112% 834 139% 13351 学卒者採用開始
昭和天皇御入坑
国家管理(社会党内閣)
23 125% 934 143% 13755    
24 151% 1123 138% 13252   石炭統制撤廃配炭公団解散
25 154% 1147 130% 12443    
26   1338   12712 習技生 制度 発足  
27   1337   13585   朝鮮動乱 特需
炭労 無期限スト
28   1316   12521    
29   1246   11594   石炭合理化措置法
30 155% 1153 114% 10926 一時帰休実施 石炭整備事業団 発足
35 184% 1373 99% 9524 東西開発合理化計画 発表 (31年)  
40 236% 1759 54% 5222 繰上定年(50才)と希望退職 (37年) 
経営多角化
系列会社設立
ハワイアンセンター 発足 (40 年)    
石炭調査団 (37
45 291% 2171 45% 4283 東西開発合理化完成 
国際会議出席(45年 )
 
46         閉山  

終戦から三〜四年で出炭・在籍とも四〇%も増え、学卒者もこれに準じて増員されて拡大する組織の各セクションに配置された。

二十六年には優秀な労働者を自前で確保すべく、習技生制度を発足し従業員子弟の中、高校卒業生を中心に年間四百名を採用した。この際の指導教官には学卒社員が当り、年間費用は一億円近くになった。

(三十年が近くなる頃、ブームは去り冷静に足許を見る様になる)

それは石油や輸入炭との競合が始まり同時に石炭産業の将来が問われる、所謂エネルギー政策の見直しであり、石炭合理化措置法や整備事業団が相次いで発足した。

 この頃の世論には何とか国内炭が競争に耐えられる様にする為の前向きの姿勢が見られた。例えば石炭鉱業審議会は

標準炭価  四、〇九三円

屯当生産費 三、九八〇円

能率    一五・五屯/人/月

という指標を示し企業の努力を促していた。これに呼応して当社でも東西開発と銘打って集約合理化計画を打ち出したが、この時にはスクラップなどは全く考えられず、人気が下がったとはいえ学卒者の採用を続けそれなりの応募者も出て居た。だが採用人員が減ったせいか寮生の武勇談や、上司の社宅を襲うストームも聞かなくなりあまり目立たない、おとなしい存在に変ってしまった。

 

 (三十五年頃からスクラップの影が見えてきた。多角経営を目指し子会社新設)

 やがて石油の輸入が自由化され、産炭地振興法が公布される等、いよいよ後退の気配が濃くなり三十七年には政府調査団によるスクラップかビルドかのランク付けがなされた。

 当然ビルトに向け合理化を進める中で余剰人員が生まれ、繰上停年(五十二才)や希望退職者を募って在籍削減を図った。そして集約に伴って組織も簡素化され学卒者のポストも次第に狭まって行った。

 やがて各地で閉山の話が聞かれるようになり先行き不安は拭えず、合理化と併行して多角経営の道を進めるべく炭砿の持つ人的・物的資源をフルに使って積極的に子会社を新設した。そこに学卒者の多くが転出して行ったが見方を変えれば、これ等学卒者が居たからこそ二十数社の系列会社が生まれグループとして発展することが出来た。ハワイアンセンターが計画されたのもこの時期である。

 又この頃になると炭鉱生活を体験して来て自分の将来を見直す者や、家庭の事情で呼び戻される者等、退職する学卒者も出始めた。

 

 (四十年が過ぎ集約合理化も完成して、明るい兆しが見えたのもホンの一時だった)

 技術陣の総力を結集して温泉や地熱を克服した新しい採炭技法が実現し、四十五年にはスペイン・マドリッドでの世界採鉱会議で日本を代表して発表するまでになった。そして東西二坑口集約が成り、年間二百万屯を越す出炭も可能になりやっと明るい兆しが見えて来た。然し温泉の影響で当所の石炭は宿命的に硫黄含有率が高く、遂に鉱害規制にひっかかり販路を絶たれてしまい慌しく閉山に追い込まれてしまった。

 

 (四十六年 閉山)

 閉山時の学卒者在籍を次表に示す。

学歴別構成
    区分 大学卒   高卒   高卒以上 の合計     備考
種別   職員 砿員 職員 砿員 人員 構成比  
技術系 採鉱冶金 40   24 23 87 10.10%  
  機械 12   14 204 230 26.70% 電気主任技術者17人
電気工事士12人 
  電気 13   18 32 63 7.30% 電気保安技術者65人
電気保安有資格99人
  土木建築     10 16 26 3.00%  
  その他 5     10 15 1.70%  
   計 70   66 285 421 48.80%  
事務系   20   107 314 441 51.20%  
合計   90   173 599 862 100.00% 聴講生(下表)は高卒に含む
職砿計 人員   90   772 862    
    2.10%   17.80% 19.80%   本欄の%職砿員在籍(4345人)に対する割合を示す
大学卒には 旧高専、高卒には旧 中卒を含む

 

聴講生制度による再教育状況
  区分        
科目   修了者 在学中   計  
資源   17 2 19 早稲田大学
機械   13 4 17 福島高専
電気   13 4 17
土木     2 2
建築     2 2 早稲田大学
経済   3   3
  46 14 60  
   
聴講生制度とは、高卒者を中心に上述両校に2年間通学させ、短大
  程度の技術を修得せしめる制度である。

 九十名の学卒が残って居たが定着率がどの位だったのかは不明である。ただ私等の同期入社四人の内、二人(東大・東北大各一名)が途中退社している。

 そこで私なりに残って居た学卒達を想う時

  世間知らずの人達か

  四十年頃からは日本経済は最盛期に向う時で、炭鉱の給料や退職金は他業種大手と較べると著しく低くなって居た。その事を知らなかったのか。

  辛抱強く、順応性があった人達か

  苛酷な仕事に耐え、住めば都と安住して居た人達か。

  図太い神経の人達か

  くよくよしない楽天家で、あっさり諦めてしまう人達か

 これも今だから言えることで、やはり仕事仕事で、仕事が総ての戦後を支えた人達だった。又地元の女性を女房にした者程、地元にへばりついて居たようだ。

 

 次に学卒者が閉山の別れに当って口吟んだ歌を紹介するが作者も学卒の技術者である。

   炭砿(ヤマ)と別れる

              作詩 寺本 格

              (知床旅情の曲で歌う)

一、いわきの山路に   しゃくなげの咲く頃

   思い出しておくれ  俺たちのことを

   飲んで歌って    窓にもたれりゃ

   はるか湯の岳に   入日が沈む

 

二、地の底深く     黒ダイヤ求めし

   父の汗知るや    ハワイアンの乙女よ

   やしの葉かげに   しぶき舞飛び

   タヒチのリズムに  夜は更けゆく

 

三、別れの日は来た   湯本の町にも

   君は出てゆく    ズリ山をあとに

   忘れちゃいやだよ  炭砿(ヤマ)の仲間よ

   私を泣かすな    白い湯の香よ

             

 私を泣かすな    白い湯の香よ

 

尚この歌詞は、日本で最後まで残った北海道太平洋炭鉱が閉山の折、離職者を励ます歌として平成十四年、二月二日の朝日新聞紙上で紹介されている。

 

 

三、   閉山後

 先にも述べたコンサルタントの先生が言うのに、興産グループ各社を見ると炭鉱時代の工学部系出身者の活躍が目立つとのこと。私は次の様に答えておいた。

 炭鉱の技術屋は生産するための技術だけでなく、資材から原価、更には労務に至る管理技術をマスターしなければならない。いわば百科辞典のような知識と技術が求められるゼネラリストであり、同時にマネージャーである様に育てられたのが今役に立っている思うと。

 今顧るとあれ丈の学卒者がいて当社には学閥が無かった。強いて言えば旧制高等学校出のLS会(文科・理科の頭文字)と秋田鉱専の北光会があったが同窓会程度で閥と呼ばれる程のものではなかった。思うに閥の存在など許さない苛酷な職場であって、経験と実力のみが通用する処であったからであらう。

 今は全国何処の大学にも「鉱山」と名が付く学科は見当たらず、今昔の感一汐である。

                               ―以上―

                                2003,12,10 入力

 (略歴)

          大正12年 栃木県生れ

          東北大学工学部鉱山学科卒

          昭和22年入社

          昭和46年閉山時磐城  務部次長

・ 兜沒総合計算センター社長、常磐興産且謦役等を歴任して平成5年退任